「清々しき人々」旅行日記の秀作を発表した 井上通女(つうじょ)

新居関所の通過で大変な苦労

 ここは開府以前の一六〇〇(慶長五)年に家康が直轄の関所として創設、約一〇〇年間は幕府から派遣の新居奉行が管理していました。別名「女の関所」との呼名もあり、江戸から到来する「出女」だけではなく、江戸を目指す「入女」も監視するため女性の難関でした。そこで手前の御油宿や吉田宿の周辺から脇道へ進入し、浜名湖の北側を大回りして浜松宿や見附宿へ到達して新居関所を回避する旅人も多数いたようです。

 当初、関所は現在よりも東側に位置していましたが、一六九九(元禄一二)年の高潮で被災して移転します。ところが、その建物も一七〇七(宝永四)年の富士山大噴火を原因とする地震と津波によって倒壊し、翌年になって現在の位置に再建されました。その建物もさらに一八五四(安政元)年の安政東海地震で倒壊し、翌年再建された建物が国指定特別史跡として現在まで保存されているという因縁のある建物です(図2)。

図2 新居関所跡(国指定特別史跡)

 大坂の奉行所で発行された関所手形を所持していた通女には通過は心配がないことのようでした。ところが一一月二七日に新居関所に到着し、手形を提出したところ通行させてくれません。手形には「女」と記載されていましたが、通女は未婚で振袖を着用していたため「脇あけたる小女」と記載されていないと無効だという理由です。厳格に審査していたとも理解できますが、役所仕事を象徴するような状況でした。

 そこで手形の変更のため大坂に使者を送り、待機することになりました。文才のある彼女は「旅衣/新居の関を/越しかねて/袖によるなみ/身を恨みつつ」という和歌に感情を表現していますし、同様の漢詩も制作していますが、如何ともできない状況でした。ようやく一二月三日に修正した関所手形が到着し難関を突破できました。皮肉なことですが、この史跡の新居関所の境内には上記の和歌の石碑が設置されています。

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